ブログ説明

ひどい耳鳴りのためTRT療法を体験
その後、難聴は進行して、ほぼ聞こえず。でも耳鳴りだけは聞こえる(笑)
アブミ骨手術ができるということで、その体験談も書きます。

2025年12月25日木曜日

音が消えて気づいた「世界の輪郭」と、周りに合わせる努力の日々

私の耳が聞こえにくくなってから、しばらく経ちました。徐々に衰えてはいったものの、ある時ガクンと聴力が落ちた瞬間があり、その日を境に私の世界は一変しました。

そこで痛感したのは、**「この世の中は、音で気づくことを前提に作られている」**という事実です。

音が聞こえなくても頑張って生きる


自分の存在さえも「音」で確認していた

耳が悪くなってまず戸惑ったのは、自分自身の体の動きです。 服が擦れる音、どこかに手が触れる音、そして地面を叩く足音。私たちは無意識にそれらの音を聞くことで、自分の動きや歩調を確認しているのだと初めて気づきました。

音が聞こえなくなると、自分の体の感覚がどこか頼りなく、浮いているような気持ちになります。まるで自分が「忍者」にでもなったかのように、音もなく忍び足で歩いている感覚。自分の存在の輪郭までもが、音と共に消えてしまったかのようでした。

「普通」に歩くための、見えない努力

外を歩くときは、健聴者の方々が想像する以上に神経を研ぎ澄ませています。特に狭い生活道路は、私にとって戦場に近い緊張感があります。

最近のハイブリッド車やEVは本当に静かです。音を頼りにできない私にとって、彼らは背後から音もなく忍び寄る存在。だからこそ、私は**「あえて一方通行の道を、車と逆向きに歩く」**という工夫をしています。

前から来る車を目で確認し、相手の動きを予測する。 「普通に歩く」という当たり前の動作ひとつとっても、耳が聞こえる方と同じように安全に過ごすためには、こうした小さな、けれど欠かせない努力の積み重ねが必要なのです。

ルールとマナー、そして安全への願い

どれだけこちらが注意を払い、周りの流れに合わせようと努力していても、どうしても恐怖を感じることがあります。

特に最近目立つ「LUUP(電動キックボード)」には、強い憤りを感じることがあります。交通ルールを無視した走行、そして何より「気配」を感じさせない静かさで、すぐ横をすり抜けていく。 こちらがどれだけ周囲に気を配って「合わせよう」としていても、予測不能な動きをされると、防ぎようがないのです。

ひどいのになると接触した上に、謝るどころか悪態をつき罵声を浴びせるような人まで現れます。まあ幸いなことにその罵声には私の耳には届かないですけどね。

おわりに

音が消えた世界で生きることは、常に周囲の状況を読み解き、自分を適応させていくプロセスの連続です。

「周りに合わせるための努力」は、正直に言えば疲れることもあります。でも、そうして研ぎ澄まされた感覚で捉える世界も、また一つの現実です。

もし街中で、何度も後ろを振り返ったり、慎重に道を歩いている人を見かけたら、「見えないところで努力している誰か」がいるかもしれないと、心の片隅に留めておいてもらえたら幸いです。

耳が悪い人も結構苦労しています



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